天音弦楽四重奏団 第3回演奏会 (2025年6月29日 代官山教会)より
信時潔 絃楽四部合奏 が公開されました♪
1st Vn. 奥村智洋 Tomohiro Okumura
2nd Vn. 對馬佳祐 Keisuke Tsushima
Va. 森澤麻里江 Marie Morizawa
Vc. 村上曜 Yoh Murakami
演奏会ノートより↓
戦前に我が国の西洋クラシック音楽界を牽引した、代表的な作曲家は誰かと問われたとしたら、おそらくほとんどの人は山田耕筰(1886-1965)と答えるであろう。確かに彼は日本人にとっては非常に馴染みやすくて、きれいな旋律が伴った童謡や歌曲を数多くのこしたし、それらは現在でも多くの人々によって歌い継がれている。だが実は同時代の日本には、山田耕筰以上に真の実力があり、芸術的な観点でより優れた、格調高い歌曲を多々のこした作曲家が存在していた。その人物こそ信時潔(1887-1965)である。彼は山田と比べると、世渡りや政治的権力の行使がそれほど上手くはなかったし、また彼の作品には、高度なドイツ音楽のイディオムの要素があり、それは当時の一般的な日本人にとっては、理解するのが少々難しかった、といったような理由で、世間的には山田ほどの名声は得られなかった。そして信時は、現在の日本の音楽界においても、日本歌曲に深い造詣があるごく一部の人々以外には、それほど偉大な作曲家とは認知されていないのが実情であり、それは甚だ残念なことである。しかしながら1937年に信時によって作曲された、万葉集大伴家持詩による「海ゆかば」という短い歌曲だけは、例外的に(当時の日本の軍国的な世相も大いに影響していたであろうが)当時は“第二の国歌”と言われるほど、国内にいた日本人全員が皆知っていて口ずさめるほど大流行していた。
信時潔は1887年に大阪で、牧師の家に生まれた。そして1906年18歳の時に、チェロ専攻生として東京音楽学校器楽科に入学した(当時この学校には、作曲科というものはまだ設けられていなかったようだ)。彼は牧師の家庭で育ったため、幼少期からプロテスタントの讃美歌の数々には相当馴染んでいたようだが、今第一線で活躍している音楽家たちのような、幼少期から音楽の英才教育を受けられる環境下では全くなかった。そのため音楽学校に入学した時点では、彼はチェロをまだ習い始めたばかりで、かろうじて簡単な音階を弾ける程度の、初歩的な演奏能力しかなかったようだ。だがその後はチェリストおよび作曲家としてめきめきと頭角を現していき、1920年から1922年にかけては文部省在外研究員として“チェロと作曲の研究のため”ドイツ・ベルリンへの留学を果たした。その際ベルリンで彼はチェリストとしては、現地音楽家との合奏に加わり、室内楽にも親しんだようである。
本日演奏する弦楽四重奏曲「絃楽四部合奏」は、そのベルリン滞在中に書かれた作品である。これは信時が生涯でのこした唯一の室内楽作品であるが、作曲された経緯や動機などは一切不明である。おそらくは、チェリストとして現地のドイツ人音楽家と室内楽合奏をした際に、彼らから大いに啓発されたといったようなことが、この作品が生まれた強い動機であっただろうと私は推測する。
初演は信時の死後12年もたった1977年であり、その後も公には数える程度しか演奏されていない。ちなみにこの作品はタイトルが曖昧であるせいか、各パートを複数人で弾く弦楽合奏のスタイルで公開演奏されたケースが、過去に複数回存在するが、明らかに四人だけで弾く弦楽四重奏のスタイルのほうが、この曲においては相応しいのでないか、と私は考えている。この作品はソナタ形式で書かれていて、ト短調の単一楽章である。ドイツ音楽の伝統的な作曲技法である、対位法が多用されており、また当時のドイツではまだ流行していたであろう、ロマン派末期の半音階的な進行もところどころでみられる。またそれ以上にこの作品のなかには、遠く離れた日本への郷愁や、当時(大正時代)の教養があり誇り高い、日本人の美しい姿といったものが、強く投影されているように私には感じられる。この素晴らしい作品が今後我が国で広く認知されるようになることを、私は願ってやまない。
(文・奥村智洋)